『転ばぬ先のタオル』 きりのいいところでセーブすると、PCをスリープにして遠海悟は席を立った。 少しでも席をはずすときはスリープにする。 それは以前からの習慣だが、このところ、特に気をつけるようになっていた。 同居人が増えたからだ。 悟が住んでいるのは下宿・青山荘(せいざんそう)。 下宿といってもそれは数年前までの話で、今は経営していない。 経営もしていない下宿に、居候(いそうろう)が増えたのには、訳があった。 ダイニングというよりは「食堂」とでも呼んだ方が似つかわしい部屋で、同居人の一人が頭を拭いていた。 ミカ・アルステッド・ハイネ。 本人いわく、「愛天使」という存在だそうだが、悟にはそれがどういう存在なのか、いまだによくわからない。 「……こら、ミカ」 「ん? なによ」 椅子の上で、彼女は振り返りもせずに返事した。 タオル越しに、テレビを見ているらしい。 「あはは。人の世のテレビって面白いわよねぇ」 「あのさ、風呂上がりにテレビを見るのはいいけれど」 悟はため息をついた。 「ちゃんと着替えろよ」 「え?」 ミカが怪訝そうに振り返る。 「いや、バスタオル1枚でうろちょろするんじゃなくてさ」 「だっていま、あったかいから」 「そういう問題じゃない」 ところで、この物語の主人公・遠海悟は、オタクである。 重度の二次元オタクである。 現実などくそゲーと称してはばからない。jpegに現実がどう勝るのか、理解できない。 それは本気でそう思っていたのだが。 ミカは足を組んで椅子に座り、バスタオルがめくれて白い太ももが剥き出しだ。 見えそうで見えないという、危うい感じすらある。 それが視界に飛び込んできたとき、心臓が一瞬跳ねたのは、我ながら意外なことだった。 「じゃあどういう問題?」 人差し指をあごにあて、彼女は不思議そうにした。 「ミカは女子だ。そして俺は男子だ。……わかるだろ? いくらなんでも」 「でも、素っ裸ってわけじゃないんだから」 悟は肩を落とした。 いまいち通じないのは、きっと、ミカが自分の魅力に無自覚なせいだろう。 いつもそうなのだ。 たとえば、彼女が「愛天使学校」に通っていたころ、男子からの人気抜群だったという話が出た。 その感想を訊いてみたところ「べつに、なんとも」というのが答えだった。 目の覚めるような美少女のくせに、自分の魅力にはとんと無頓着。 「愛天使学校」の男子にとっては、さぞ悩ましい存在だったことだろう。 「まあいいや」 悟は冷蔵庫に向かった。元々のどが乾いていたが、ミカのせいでさらに乾いた。 「あ、あたしにもなんかちょうだい」 「ああ」 ジュースを取り出しながら悟は尋ねた。 「もう慣れた? こっちの暮らしには」 「うん。この家も住みやすいし。ごはんは美味しいし」 「そりゃよかった」 オレンジジュースの入ったコップをテーブルに置いた。 頭を後ろに倒して、ミカがコップの中身を喉に流し込む。 そのほっそりとした首筋が波打つ様にも、やけに目が奪われてしまった。 「ところであんた、休みの日はちゃんとナンパでもしてる?」 「はあ?」 「「はあ?」じゃないわよ」 タン、と音を立ててミカはコップを置いた。 そしてすっくと立ち上がり、腰に両手をあてた。 勝ち気な表情だ。 二次元オタクでも思わず見とれてしまうほどの、整った顔立ち。 普段はツインテールにまとめてある髪が、いまはざっくりと背中に流れている。 濡れ髪が妙に心をざわめかせるのは、何故だろう。 「ほんとに恋人作る気あるの? あたし、そのためにここにいるんだからね」 「…………」 「聞いてる?」 「あ、ああ」 そうなのだ。 愛天使は人の恋愛を後押しする──。 愛天使の「愛」は恋愛の「愛」。 だが悟は二次元オタクだった。三次元よりはディスプレイの向こうと恋をしたかった。 そんな態度はミカを大いに呆れさせたものだが、悟としてもどうしようもない。 「恋人は、もういるよ」 「えっ、うそ?」 「ゲーム画面の中に」 「本物の!」 ミカは足を踏みならした。 「俺のヒロインを偽物呼ばわりするな!」 「あんたねぇ……」 ミカが上目遣いで睨みつける。 体は小柄なのに、その迫力はなかなかのものだ。 と、そのとき、体に巻き付けていたバスタオルが、わずかにずれた。 さっき床を踏んだときに、結び目がほどけてしまったのだろう。 悟がそんなことを考えている合間に──。 タオルはするすると移動し、やがて床に落ちて、ぱさっと乾いた音を立てた。 「あっ」という声は二人同時だった。 ミカのまぶたに瞬時に涙が盛り上がり、肩がぶるぶると震えた。 「いや。その」 「言い訳無用!」 「俺のせいか!?」 ミカが右手を振りかぶった。 腰の据わったいいパンチだった。 床にキスをしながら悟は思った。 あいつも、全裸を見られたら赤くなるくらいの女らしさはあるんだな。 ……ならいいか。 「いや、よくねぇ!」 |